育児休暇がくれた、手術室でのコペルニクス的転回

白内障手術を本格的に始めてから、だいたい半年が経った頃だった。
ようやく手順を追うことには慣れてきたものの、まだ一つ一つの操作に全神経を使っているような時期だった。

そのタイミングで、第四子の育児のために育児休暇を取ることになった。
正直に言えば、「これまで積み上げてきた感覚が鈍ってしまうのではないか」という不安もあった。それでも、家庭の状況を考えれば迷う余地はなかった。

「育児休暇」という言葉への違和感

前提として、私は「育児休暇」という言葉があまり好きではない。
「本来は働いているはずの労働力が、育児を理由に一時的に職場から離れている期間」という、雇用主目線のニュアンスを強く感じてしまうからだ。

中心にあるのは仕事であり、育児はそこから“離れる理由”。
そんな構図が、当たり前として突きつけられる感じがする。

一方で、実際に育児をしている当事者からすると、
「今」の人生の中心にあるのは子どもや家族の時間のほうだろう。仕事はその中の、とても大事な一部ではあるけれど、それでもあくまで「一部」だ。「今」は。

そんな違和感を抱えたまま、私はいったん手術室から離れることになった。

育休中、手術のことはほとんど考えなかった

育休中の私は、驚くほど手術のことを考えていなかった。
考える余裕がなかった、と言うほうが正確かもしれない。
「イメージトレーニングしときます」
ブランクができることについて上司と話している時はそう言って見たのだが。

毎日相手をしていたのは、術野ではなく、泣いたり笑ったりしながらこちらのペースをお構いなしの子ども達だった。
抱き上げる、あやす、着替えさせる、ごはんを食べさせる──そんな身体的なやりとりが一日の大部分を占める生活に、あっという間に切り替わった。

教科書も手術動画もほとんど開かなかった。
ブランクと呼ぼうと思えば、いくらでもそう呼べる2か月間だった。

復帰して気づいた、「世界の見え方」の変化

復帰後、久しぶりの手術室で顕微鏡を覗いたときだった。
視野は見慣れたはずの白内障手術の風景なのに、世界の「見え方」が少し違っていることに気づいた。

育休前の私は、顕微鏡に映る2次元の映像を相手にしていた。
光の反射、前嚢の線、核の色合い、器具の位置──そうした画面上の情報を、その場その場で必死に読み取りながら手を動かしていたように思う。

いま振り返ると、

顕微鏡映像そのもの = 対象

として扱っていた感覚が強かった。

ところが復帰後は、少し違った。

顕微鏡の向こう側に、「実在としての眼球」が立体として立ち上がって見えるようになっていたのだ。
角膜から前房、水晶体、後嚢、そのさらに向こうの硝子体腔までを含めた「ひとつの眼球」が、奥行きと大きさを持った実体として、頭の中ではっきり存在している。

顕微鏡からの映像は、その立体モデルに情報を上書きしていくための“投影像”に近くなった。
画面の中で起きていることを追いかけるのではなく、

「ここにこういう形・大きさ・奥行きを持った目がひとつあるのだから、
器具はこの方角から、ここまでの深さで動かしても良い」

という感覚で手が動くようになっていた。大袈裟かもしれないけども。

簡単に言うと、

  • 以前:2Dの映像をそのまま相手にしていた
  • 今:3Dの「実在としての目」を相手にしている

というシフトが起きていた。

不思議な「上達のタイミング」

運動学習の研究では、短い休憩のあいだにもパフォーマンスが向上する「micro-offline gains」と呼ばれる現象が報告されている。
それが本当に「休憩中に脳の中で学習が進んでいる」のか、それとも単なる一時的なパフォーマンスの改善なのかについては、最近になって異なる解釈を示す研究も出てきていて、議論の途中にある。

脳の中で、練習で詰め込んだ動きや感覚が、休んでいるあいだに静かに整理され、ノイズが削ぎ落とされ、よりシンプルなパターンとして再構成されていくのだろうか。

白内障手術でも、似たようなことが起きていたのかもしれない。

半年間で一気に詰め込んだ、

  • 顕微鏡での見え方
  • 手の動きと組織の反応
  • ヒヤッとした場面の記憶

そうしたものが、育休中に表面からいったん退き、
代わりに「ひとつの臓器としての眼球」という、より骨格に近いイメージだけが残っていったのではないか。

復帰したとき、私は「技術の詳細」を取り戻そうと必死になるつもりでいた。
けれど実際に起きていたのは、「対象との向き合い方」そのものの変化だった。

育休は「キャリアのブランク」なのか

一般的には、育児休暇はキャリアの一時的な中断、あるいは“穴”のように捉えられがちだ。

たしかに、手術件数や外来数の数字だけを見れば、その期間はゼロになる。
できることも、一時的には減るかもしれない。

けれど自分の経験を振り返ると、育休は単なる中断ではなく、

仕事に関して言えば、医師としての身体感覚が組み替えられる時間

として働いていたように思う。

顕微鏡映像を「その場で読み解く対象」として扱っていた段階から、
「実在する立体の眼球に器具を当て、その全体像に沿って動く」段階へと、術中の世界の見え方が変わった。

それは、育休という時間がなければ起こらなかった変化かもしれない。

育児休暇という言葉を、少しだけずらしてみる

今の自分にとって、育休は「仕事を休む」というより、

育児にコミットすることで、自分の重心が入れ替わる期間

と言ったほうがしっくりくる。

仕事を中心に据えたまま「そこから離れている状態」とみなすのではなく、
今は育児と生活を中心に据えたうえで、仕事に関しては「医師としての感覚やスキルが頭の中でいい感じに組み替わるフェーズ」として捉え直してみる。

そう考えると、育休はキャリアのマイナスではなく、
むしろその後の仕事の「見え方」を変えてしまう、小さなコペルニクス的転回のような時間だったのだと思う。

白内障手術の現場に戻ったとき、
顕微鏡の中に見えたのは「術式の対象」ではなく、「ここに実在するひとつの目」だった。
その感覚の変化をもたらしたものの一部として、自分は育休を位置づけることにした。

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